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Feb 07
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終わらない庭

先月の京都にいた間にいろいろ庭を見てきました。
その中で夢窓疎石のつくった天龍寺を見に行ったとき、京都で庭師になったと言い残して消えた高校の友人がそこで庭仕事をしてて偶然再会!普通に砂利運んでて笑った。後日お茶しながらいろいろ庭について話てきた。


その友人のいる造園会社は天龍寺と東福寺が契約してる寺で、そういう風に寺という大小様々な企業から造園会社は仕事を請け負うらしい。寺は庭や建物を維持するために、例えば池を維持するために水道設備の会社と契約して、そういうピラミッドの頂点にいる住職が、どこと契約するか決定権をもっている。そしてスポンサーとして壇家がいる図式なのだそうだ。かなり話が逸れました。ここから少しずつ本題へ。
庭師の仕事は木の手入れや砂利の整備とかいろいろ。木の手入れは季節ごとにやることが決まってて年中やることがある。木によって手入れの仕方は様々で、とくに赤松は一番大変らしい。庭という一つの限られた空間の中で、自然と言うナマモノを相手にしながら、数百年前に作られた庭を維持し、時には手を加えて受け継いでいるのだ。


また重森三玲の自邸を見に行ったのだけど、そのとき聞いた話が印象的だった。
元々武家屋敷を譲り受けて、既存の樹々はそのまま触れずに作庭した。そのため、以前は庭の中央に大きな松の木が立っていた。しかしその松は数年前に台風か何かで倒れてなくなった。真ん中で存在感のある松がなくなったため、今度は石がよく見えるようになり重森三玲の本来得意とする荒々しい石組が見えてきたという(写真)。庭では木は一番寿命の短いもので、重森氏も枯れたら枯れたでそのままにするようと言ったいたらしい。


庭とは常に変化し、生きているもので、木々や緑は生まれては朽ちてを繰り返し、石はそこでじっと長い時間を経て在り続ける。周りの環境がどう変化しても、そうやって生きているものなのだ。庭の寿命は果てしなく長い。木々が切り倒されて、石が別の場所に持ってかれないかぎり、庭はそこにあり続ける。庭は人の手でつくられたら、人の手で壊さない限り「終わらない」のだと思う。


「終わらない庭」という本があって、その中で三島由紀夫が書いた文章が日本庭園の本質を書き尽くしてると思ったので多数引用。

『おそらく日本の庭のもつ秘密は、「終わらない庭」「果てしのない庭」の発明にあって、それは時間の流れを庭に導入したことによるものではないか』

『しかし、時間を庭へ導入することを、西洋の造園術は思いつかなかった。もし時間の原理を導入すれば、形態は腐蝕され、秩序は崩壊し、モニュメントは無効になるであろうからである。立木はたえず時間の影響をうけて変形するので、その刈り込みは庭師の多忙な仕事であったが、樹々は配列も形態も、彫刻同様にはっきり反自然的なものであらねばならなかった。
 庭はどこかで終る、庭には必ず果てがある、といふ概念は、西洋の専制君主にとっては、我慢ならぬものであったに相違ない。そのためには、空間を支配し、空間を構造で埋めなければならぬ。ヴェルサイユの庭はその極地である』

『われわれは音楽を体験するように、生を体験するように、日本の庭を体験することができる。又、生にあざむかれるように、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験でない。それはすでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭をみれば、幾何学上の定理の美しさを知るであろう』


日本庭園の豊かな空間の本質のキーワードは「時間」だろうと納得。庭の永続性としての「時間」、空間体験における「時間」など。いろいろな時間が導入されることで日本庭園の豊潤さは生み出されている。


加えてあるとすれば「視点」だと思う。
日本の庭はアイレベルで全体を俯瞰できないものであり、西洋の庭は全体を一望できて、そこから幾何学的な美しさを楽しむ。それは政治的な空間性に繋がるのだけど、こっから先はまだ全然まとまってないのでまた。