桂離宮で考え中・・・その2。
つづきです。
その2は空間体験の弁証法について書きたいと思います。
一般的に桂離宮は池泉回遊式庭園の最高傑作と言われてます。池泉回遊式とはかなりオーソドックスな日本庭園の形式で、真ん中に大きな池があり、その周りを巡りながら視界が閉じたり開いたり、様々な空間変化を体験するタイプです。つまり動線による空間のシークエンスを楽しむものです。事前にそういう予備知識は入れて行ったので、そこら辺の空間体験を半分目当てにしてたのですが、実際には空間のシークエンスを感じるより僕が感じたのは「離れながら繋がっている」感覚でした。
というのも、桂離宮はまず「見せない」ことにこだわっていることがあると思う。パプティノコンのような全体が一望できるポイントはもちろん無く、池沿いに視界が開けるポイントもかなり限られている。だからこそ、劇的な空間変化があるというのが定説だろうと思うけど、さらに約1200個と異常に多い飛石がそれどころじゃない気分にさせる。
それよりも、建築内から池越しに見える向こう岸の建築の見えのほうが印象的だったり、ほとんど木々で見えなくても感じる向こうの気配だったりが重要に感じました。建築を中心にしたいくつかの群島が、池を介して一体感を持っている感じ。原広司の言葉を借りれば「離散空間」。
そして、「離れながら繋がっている」空間体験が桂離宮の本質だと思う裏付けは、その1で書いた「桂離宮は美しい月をみるための建築」です。つまりここを訪れるのは基本的に月の美しい夜だということです。中秋の名月にそれぞれの茶室は月見台などで、茶会や酒の席が開かれて思い思いの楽しみ方で月を観る。そういう過ごし方をすることが桂離宮の目的だったと想像できます。夜に月と石灯籠の明かりがあるとはいえ約1200個の飛石を歩いて巡るのは危険(昼間でも結構あぶなかった)だし、実際には池を船で移動していたようです。
とはいえ夜の楽しみ方がここの全てではないし、昼に見てもやはり良かったけど、桂離宮には昼と夜の顔があり、昼は「動線体」夜は「離散空間」と姿を変える庭園だといえます。これが2つ目の「多様性と対立性」です。
おそらく桂離宮は日本庭園の辞書みたいなもんじゃないかな〜。