屋号
まずは屋号から決めていきましょう。
・ソトカレーラボ/soto curry lab.
・青空カレーラボ/aozora curry lab.
→日本語でも英語でも、どちらでも。
いろいろ挙げてみましょう!
フジフジ
まずは屋号から決めていきましょう。
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・青空カレーラボ/aozora curry lab.
→日本語でも英語でも、どちらでも。
いろいろ挙げてみましょう!
フジフジ
世田谷美術館でやってる横尾忠則の展覧会に行ってきました。
かなり面白かったです。その内容についても書きたいけど、ここでは横尾さんのY字路シリーズについて少し書きます。
今回の展覧会の中でもY字路が何点もあって、初めて実物を見てものすごい引き込まれた。この絵の持つ求心力はなんなんだろう。絵に出てくるY字路は実際の風景を断片的に繋ぎ合わせた架空のY字路で、左右の背景が全然別の風景で、それがこの絵の持つ不気味さを増長してる。でもこの絵の魅力は不気味さと同時に感じる心地よさだと思う。
その心地よさはどこから来ているんだろう。
それはY字路の分岐している形状から来ているのだと思う。横尾さん自身はY字路を書き続けている理由に、そのカタチに興味があるから何枚も書き続けられている。意味の追求だとこんなに描けないと言っている。Y字路には、この先の道をどちらか選ばないといけない。そういう選択を迫られて、正しい道を選べているかわからない漠然をした不安がある。それはY字路の形状が導きだしている。例えば交差点だと、そんな不安な気分にはならないと思う。別々の方向から歩いてきて、交差点ですれ違って、またそのまま進んでいく。なんとなく爽やかなコミュニケーションを感じる。でもY字路の持つ不安は、無意識に共有される種類のもので、だからこそ居心地の良さを感じるのだろうと思う。
カタチと、それが誘発する行動の関係は最近興味のあることで、単純にアフォーダンスだけに収束できないものがあると思う。それにはカタチが誘発する感情がさらに含まれているとか考えている。
に行ってきました。(写真は違う展示のです)
メゾンエルメスの部屋いっぱいに、あらゆる日用品を駆使して壮大な無重力空間を作ってるような感覚。すごい自由に見えて、それと同時にすごい厳密な構成があるようにみえて、無秩序の秩序のようなものを感じた。それは今自分が関わってるプロジェクトにも大きく関わってることだから、かなり興味深かった。
全体の印象はすごく雑然と空間の中に強い風が吹き荒れたみたいに流れのあるものになってるけれど、視点をミクロな方に移すと 小さなもの一つ一つが整頓して並んでたり。部分と全体での作られ方が全然違って見える。
あと全体を見るととても無重力で無構造(奥のタワーは柱にいろんなモノを巻き付けたりして立っているから)のように見えるけど、部分で見ると2次元的、フラットな構成になっている。だから見る角度によっていろんな展開がある。強引につなげると、これはレディメイドで作られた日本庭園ともとれる。
カタログに載っている長谷川祐子の解説から面白かった部分を抜粋。
『その表現は圧倒的にバロックである。(中略)現在は特にバロック的なるものが強く出ている時代である。ドールズは古典主義的な時代は音楽は詩的に、詩は絵画的に、絵画は彫刻的に、彫刻は建築的になる、とし、バロック的傾向の強い時代には引力の法則は逆に動き、建築家は彫刻家と化し、彫刻は絵画的となり、絵画と詩は音楽固有の律動的な色彩を身にまとうと述べている。 建築家的彫刻家としてのジーの作品は絵画的でもあり、かつ「偶然」を指揮しているような音楽的な手つきがそこにある』
つづき。
なぜ今「通路」なのか?
「通路」は川俣さんのライフワークといえるし、30年近く取り組んでいるテーマだが、今こういうタイトルの展覧会をすることは時代の無意識の意識を感じるのです。
それは「滞留する空間」への反動から来ているのではないかと思います。 メディアテーク以降ヒエラルキーのない、滞留する場が平面的に点在する空間構成が主流になり増えていった。それに対して、より触覚的な体感できる空間、動き回って身体的な開放感を感じれる空間が求められるようになったのではないかと。留まることに飽きた身体が、より動的な空間体験=「体感する空間」を欲するようになったんじゃないかと思う。
ところで「滞留する空間」と「体感する空間」には対称的な構造があって、前者はまずいくつかの留まるための目的地が想定されて、それらをつなぐために動線や人の動きが生まれる。後者は逆に「まずは人々が動き回る」道ないしは動線があり、そのループする動線の中に目的地のようなものが生まれる。それは都市で例えると、前者はあらかじめ本屋とかレコード屋とか行きたい場所があって、その中で店から店に移動していくようなもので、後者は行ったことの無い街でとりあえずひたすら歩き回りながら、街の構造を知ったり興味をもった店などに入る「地井武男のちい散歩」的な空間体験がある。「滞留する空間」はそこにある目的がはっきりしてるから、想像以上の驚きはないかもしれないが一定の欲求を満たしてくれる。「体感する空間」は何が待っているかわからない、想像を超えた体験があるかもしれないし逆にがっかりするだけかもしれない。2つの空間には相反する行動の性質がある。
川俣正が今になり「通路」という言葉を引き出してきたのは、そういう先に何が待っているかわからないスリリングなものを望んでいる無意識の意識を感じ取ってのことだったのではないでしょうか。
川俣正「通路」展に行ってきました。「通路」という単語が示唆的で気になってて、展示を見ながら考えてたらいろんな発見がありました。
まず、手塚貴晴+由比も「通路」だったということ。
いくつかの作品においてですが、ある程度の大きさのスケールになるとその傾向があります。まず「ふじようちえん」は屋根の上を園児が走り回るように楕円の形状になっている。子供はこういうところが好きでずっと走り回ってるし、だれでもあの屋根に登ると動き回る衝動に駆られる。建築の形状が動きを生み出す仕掛けになっている。この論理を住宅に活かしたのが「回廊の家」です。これも子供の多い家族の家で、広く四角い平屋に大きな中庭が開いているだけで回遊性のある構成で動きを誘発する空間になっています。「キョロロ」はこの2つとは少し違って、緑豊かな周辺環境を体感しながら空間を移動するために 、チューブ状の空間で巨大な アクリル窓が景色を取り込むようになってます。これらの3つの作品は手塚建築の中でも平面が大きいものであり、3つとも見事に「通路」の建築です。
「通路」から連想されるものに、青木淳の「動線体」があります。 ここで青木さんの文章からの引用です。
『道とは何にもまして「つないでるもの」である。「つなげられるもの」ではない。だから、「すべての建築は道から進化した」という時、それは第一に「つないでるもの」の優位性、先行性を述べている。これはひとつの転倒である。なぜなら、僕たちは基本的には「つなげられるもの」の優位な世界に生きているからである」
つまり、実際には目的となる建築があるために道ができる訳で、まずはじめに道がありそれが建築に進化することは無いことになります。
『 しかし、動線体はそうは考えない。その逆に、まず人びとが動き回れるように道があった。そして、その動きをより活発にするために、あるいはその動きを一時的なものではなく定常的なものとして構造化するために、道の一部がある特定の性格を帯び始めた。それが建築ではないか。まずは人びとが動き回る。そしてその中から目的としか呼びようのないものがかたちづくられていく』
動線体の建築は人びとの動きを定着させるための装置と言えるのではないでしょうか。そして先の3つの手塚作品はまさに動線体の建築と言えます。手塚さんと青木さんがこうやって繋がってくるとは意外。また青木さんは動線体の5原則?を挙げてます。
1,内部にも外部にも「つなげられるもの=目的地、目的」をもっていないこと
2,その機能が、そこでの活動によって事後的に生じていること
3,いくつかの動きを内包したものであること
4,最低ひとつの動きが外部に開かれていること
5,動きの配線が外観を決めていること
そして、青木さんは動線体が計画学的な場所の作り方を一度無効にして、「動き回れる」ということからビルディング・タイプを再定義することを述べています。それは「ふじようちえん」が、まず「行き止まりが無く、どこまでも走り廻れる」ことから幼稚園というものを再定義していることと繋がっていきます。
実際ふじようちえんや「通路」展の会場その他、動き回る空間において感じる自由度というのは大きい。このまえ行った石上さんのKAIT工房でも、中に入ると動きたくなる衝動に駆られました。自分が動き回っていろいろなことを体感していくことは、身体の開放感とともに不意に現れる光景や現象が伴ってより触覚的な空間体験へと繋がります。
では、なぜ今になって「通路」だったり「動線体」の空間が出てくるのか?と思うんですが、かなり長くなったのでそこらへんは次回で。